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第2話 続 「無尽蔵」について

この無尽蔵のことをある人は「心の辞書」と表現している。要するに、人間は心の蔵「無尽蔵」に入って来た情報を解読する為の自分用の辞書を、この蔵の中に持っているのである。
その辞書は、幼い頃の体験、親や友人との会話、学校で教わったこと、テレビ、ラジオで見たり、聞いたりしたこと、あるいは読んだ本など蔵に入ったあらゆることで編まれている。この辞書が豊かでないと共感も感動も少ないということになる訳である。
今年の4月、我家に生後2ヶ月の子猫が来た。一生懸命飛び上がって椅子に上がろうとするのである。椅子に上がる事が出来れば机の上に上がれるからである。我家の全員がこの光景をみて、思わず応援してしまうのは、この無尽蔵の中に「努力は報われるべきだ」とか、「小動物はかわいい」といった辞書があり、それと照合することで「がんばれ」と思うのである。
無尽蔵の中に、美しいものを美しいと感じる感性や、小動物の頑張りを健気と感じる感性、努力が報われた時にはそれを喜ぶ感性がなければ、それら即ち小動物の行動は転がる石と同じで何の感動ももたらすことはないのである。そしてそういう情報の受け皿は既に我々の心の蔵「無尽蔵」に入っているのである。それが、その人の「文化」でもある訳である。

ある人はこの「無尽蔵」のことを「ドラマ解釈本」に例えている。
例えば、毎年暮れになると話題になる「忠臣蔵」を例にあげて説明してみよう。
忠臣蔵は御存知の通り、主君の仇を討つ為に四十七人の武士が吉良上野介を討ち果す物語である。
仇討ちが華々しくなる為には、仇役の吉良は悪い人でなければならず、現に忠臣蔵のストーリーの中では、吉良のキャラクターはそのようになっている。この物語を面白く見る為の解釈本は既に無尽蔵の中に入っているのである。一言で言えば、それは江戸時代の教養として当時の日本人が受け入れた儒教道徳である。忠義は良いことであるという考え方である。しかし我々は改めて儒教を勉強したこともなければ、意識して無尽蔵に入れた訳でもない。我々自身の日々の生活の中で自然と無尽蔵に入っていたものであり、即ち日本の文化そのものなのである。このような日本文化の伝統が無尽蔵の中に入っていなかったら、忠臣蔵をみて感動することはないのである。だから欧米人から見れば、忠臣蔵ほど野蛮な復讐劇はないのである。老人1人に寄ってたかって47人で押し込み、首をはねるなんぞは「Oh.No・・・・」なのである。何で欧米人は忠臣蔵が理解できないのかと驚くこといはない。欧米人の無尽蔵に入っているものと、我々日本人の無尽蔵に入っている文化、バックグラウンドが違うから当然の話なのである。

我々はあえて無尽蔵を意識し、取捨選択そして心の蔵の中に入れて来たのではない。だからこそ、良いものも、悪いものも、くだらないものも、全て入っているのである。こう申し上げると「自分はなるべく良からぬものは入れていない・・・」と反論する方もいるかもしれない。しかし実は入っているし、入れているのである。焦点が合ったものは全て入ると思った方が良い。どうゆう事かと言うと、ここに1枚の写真があるとする。この写真は全ての部位で焦点が合って、くっきり写しだされているが、現実はこのようにはならない。人間の目では、見える所の焦点は合っているが、それ以外の架所は焦点が合っていないのはずである。焦点が合ったものは全て入るのである。だから、今テレビで悲惨な事件現場の映像を見たとする。見たということは焦点が合っていたはずであるし、いくらその後、目をそむけたとしても、見た瞬間にもう無尽蔵にその悲惨な光景は入ったのである。焦点が合ったということは、それが瞬間なりとも、それを意識したことに他ならないのである。

もう1つ例を上げてみよう。ある人が講演をしているとする。その隣のビルでは工事をしているとしよう。受講者の1人が講演を録音すると、そのテープには講演者の声と工事の音が同じ音量で録音され、後で聴いてみると実に聴き難いものである。しかし実際の講演会場で聴いてる場合は意外に工事の音は気にならないものである。
本人は気付かなくても、それだけ受講者は講演者の声に意識しているし、それは先程の焦点が合っていることと同じなのである。だから、聴いたことは全て無尽蔵に入るのである。

「熏重」という言葉がある。
自分は煙草は吸わないが、近くに煙草を吸っている人がいるとこの煙が自分の衣服に滲み込み、煙草臭くなることがある。この時、煙は音もなく静かにわからないうちに、しかし確実に衣服に入り込んでいるのである。あたかも音無しで気付かないうちに滲み込む様を「熏重」という。

丁度、心の蔵「無尽蔵」にあらゆるものが入る時、それは正に熏重なのである。