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第3話 またまた「無尽蔵」について

昔からよく耳にする言葉に、「良いものを見なさい。良いものを聞きなさい。」というのがある。
これは正に心の蔵「無尽蔵」を意識しての言葉である。
恐らく皆さん方も耳にしたことがお有りかと思う。
しかし、この言葉が何を意味していたのか、そこまで知り得ていた人は少ないと思う。

我々が毎日、判断し選択し行動することについても、又あることがらについて思うことも、悩むことも、感動することも、憂う気持も、やさしくなれる気持も、あらゆる感情も全てその人の無尽蔵の中味から発せられたものなのである。

病気になった時、「何で俺だけこんな病気になるんだ」と恨む人もいる。
これだけ薬学の技術進歩があって「何で俺1人の病気を治す薬を製造出来ないのだ」と製造会社に怒りをぶつける人もいる。そうかと思えば、病気になったおかげで「健康であることの有難味がわかった」、「我々の体の持つ機能のすばらしさにも気がついた」又、「病気になったおかげでたくさんの御縁をいただいた」と病気になったことを真にありがたく思う人もいる。本当に人それぞれである。いや、それぞれで当たり前なのである。何故なら、自らの心の蔵に入れたものが同じという人はいないからである。
恨みや怒りの感情を抱く人に、ありがたく思う人の話をしても、所詮ありがたく思う人の無尽蔵に入っているものが恨みや怒りを抱く人の無尽蔵にない為、気持ちを変えてありがたく思いましょうと言っても無理な話なのである。人は正に、心の蔵「無尽蔵」に入れたもので判断、選択、意識、確認し又感情も変化し感情も動き変わっていくのである。

少しづつ無尽蔵の全貌が見えてきたと思う。
別の一面からすれば、実はこの「無尽蔵」結構厄介なものなのである。自分がこういう選択、確認するのも、自分がこう考えてしまうのも実は、自分の過去の経験・出会い・縁?の諸々の成せる業ということなのである。

ある人が災難に会ったとする。災難に会っても「命があっただけ良かった。これも勉強だ。」と思うことが出来る人とそうでない人もいる。
そうでない人は、思うことが出来る人の事をうらやましいと思うかもしれない。自分もそう思えたら楽になるのに思っても、その時までに無尽蔵に入ってるものが入っているものだけに無理なのである。

我々は1日にひょっとしたら何千回もの選択をしている。
それでも我々の頭はヒートアップしないのは、いかに我々の日常の判断・選択が無尽蔵を元にした反射的なものだからである。

だから、常日頃から「良いものを見なさい。良いものを聞きなさい。」なのである。自分を穏やかな環境に身をおけば、穏やかな判断、選択を行い、穏やかな感性で物事をとらえることが出来るのである。

己の行い、行為のことを「業」と言う。
過去の業を縮業と言う。つまり現在の自分の状況をもたらしたのは、自分の過去の行為なのである。そしてその過去の行為が同時に無尽蔵に様々な辞書を編み出し、ドラマの解釈本を作り出して来たのである。
「自業自得」という言葉がある。少々気が重くなる言葉である。
あまり良くないことが起きた時、それは自業自得という言い方をするからであるが、本来はそういう意味ではなく「自らの業が自らの行く末を決めていく」という意味で、決して良くない結果がまず先にありきで用いられたものではない。

我々はもう少し無尽蔵の存在を意識し、無尽蔵の中に何を入れていくか、気配りした方がよいのではなかろうか。