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第4話 更に「無尽蔵」について

病気にせよ、災いにせよ、人によって受け止めかたが違うのは、無尽蔵に生まれてこのかた現在に至るまでに、どのようなものを入れて来たか、(もちろん、無尽蔵という心の蔵の存在に気付いていなかったのであるから、それは無意識のうちに入れた訳であるが。)であることは、前3回までの説明で、十分御理解いただけたことと思う。
では、無尽蔵に入れたものは、もうどうにもならないのであろうか?
取り消すことは出来ないのであろうか?災難を「これも勉強だったのだ」と受け止められなかった人は、生涯このような受け止めかたは出来ないのであろうか?病気になったことを「何で自分がこんな病気になるんだ」と受け止めた人は、この先「病気になったことで、いろいろ気付かせてもらって、ありがたかった」と思えることはないのであろうか?その答えは、Noである。確かに今まで無尽蔵に入れたものでの解釈は、怒りであったり、恨みであったかもしれないが、これから無尽蔵に入れるものによっては、今後、全く別の受け止めかたが出来るようになるのである。

我々にもよくこんな経験がある。「昔はこんなことでよく腹を立てていたが、一年拾ったのかな?、今ではまったく腹も立たんよ・・・。」一年拾う中で新たに無尽蔵の中に入ったものが、恰も以前に入ったものに上書きし訂正するが如くに変えていくのである。だからこれからの人生、何事も良い受け止めかた、良い方に解釈して行ける自分でありたいと思うなら、これから先に無尽蔵に入れるものを自ら選択すれば良いのである。
私は、今年還暦を迎えた。約10年前から殆んどテレビは見なくなった。この2-3年はテレビだけでなく、ラジオも全く聞いてない。情報はひたすら新聞である。
テレビの画面を注視し、ラジオの音を注聴したものはそれなりに無尽蔵に入ってしまうと考えている。テレビは見たら、ラジオは聴こえたらもう遅いのである。
新聞の場合、もし無尽蔵に入れたくないと思ったら、一瞬にして目をそむけてしまえば良いのである。私は、これから60代、70代をどのような心の趣きで日々を受け止めていこうか考えている。
テレビを見ても、ラジオを聴いても、日々悲惨なニュースが多い。誰もがそんなニュースでうんざりすると言いながら、結構それなりに見ているではないか。見たものは必ず無尽蔵に入るのである。
バラエティー番組だって同じである。

体の免疫を維持していくには、それなりに努力が必要である。
「養生は行なり」とも言う。継続は力とわかっていても、それには努力が必要である。
心の免疫についても実は同じである。心底、素直にものごとを受け止め、良い方向にものごとを受け止めていくには、努力が必要なのである。
努力とまでは言わなくても、それなりの「意識」を持つことが肝要なのである。