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第14話 免疫を学ぶと浄土を見ることが出来る

何とも大胆な表題と我ながら思う。
人は必ず死ぬ。全ての人が死ぬ。例外なく死ぬとなれば、それは当り前のことでして、死を暗い気持ちで受け止める事もないはずと言える。

我々は死の実感を追い求めて生きてはいけない。忘れてしまうことによって何事もなかったように生き続ける事が出来るのである。
そうした心理メカニズムを人間は天性備えているのだろう。
死ぬというのは、徹頭徹尾自分だけのものである。どんなに近しい親しい人の死であっても、自分の死とは別である。大事なのは「死」ではなく「自分の死」「私の死」である。
それ以外は、極端な言い方であるが、他人事である。それ故、実感を追い求めていくこと自体、無理なことである。死を受け入れるということは、とりもなおさず生きたいという希望のあらわれで、死を受け入れるというということは、それは「生」を否定することではない。
ただ、幸せな生き方を求めるなら、どうしても幸せな死に方を探さなければならない。
「死」そのものより「死へ至る過程」が問題なのである。

私は「人は死に臨んで、自分の生の意味をはっきり認識できた時、浄土を見る事がある。」と教わった。
その心の有りようがまず大事。
「浄土とは希求するものではなく、自らの心の中にある。」とも教わった。

秋田は、玉川温泉で毎月1回行っている「免疫勉強会」も2年を越えた。「毎月、秋田へは行けない」というご要望にお応えして、東京での勉強会も今年の4月から始めさせていただいた。
私は医者であるから、私の知っている知識を皆さん方にお伝えするのは当然の事でして、義務であるとも思っている。

免疫を勉強することは、体の仕組み、メカニズムを学ぶことである。
学べば学ぶほど、知れば知るほど体のメカニズムの凄さに驚かされる。
昭和59年の私がそうであった。昭和59年、私が主治医をしていたある患者さんの大病が消えた。
自然治癒である。
それ以来、私は免疫を勉強するようになった。
体の凄さを知れば知るほど、その驚きは感謝へと変わった。
私はよく次の例を用いて体の凄さの話をすることが多い。

寒いと鳥肌が立つ。これは体から熱が奪われないように、体表の血管が収縮するためにおこる現象である。
更に寒くなると震える。その震えは、ご主人様の筋肉を動かして熱をつくろうとしておきるものである。
体は考えるのである。「血管を収縮するだけではダメだ。どんどん熱が奪われていく。これではご主人様の体が危ない。勝手ながら体を動かして(震わせて)熱をつくろう。そうやってご主人様を凍死させないようにしよう」と。
しかし、我々はどうであろう。寒ければ鳥肌が立つのも、震えるのも、当然と思っている。こちらから頼んだことでもなければ、感謝すらしたこともないはずである。この様なことだけでなく、数え切れないほどの仕組みで我々は救われている。

死に臨んで人生を共にした自らの体に感謝の意を心底思うことが出来るということは、何よりも必要な素直な心と思う。たとえ、病気が治癒せずその為に死に臨むとしても、自らの体を信じて自らの体を愛して、病気と取り組んだのであれば、無念の思いは大きく減ずる事になるであろう。何故なら、そこには感謝の思いがあるからである。

「気がついたら自分の癌は手術も出来なかった。抗癌剤も効かない。放射線も効いていない。次の抗癌剤もどうせ効かない。自分はこんなに人生、一生懸命やって来たのに最後は病気に負けっぱなしだ。」私は仕事柄、この様な人からの相談も多い。この様な人たちの殆どが自分の体の仕組みの凄さを知らない。自らの免疫の仕組みの凄さを知らないから、薬に、放射線等に頼る(委任)ことになる。
別に薬や放射線が良くないと申し上げているのではない。それとは別に自らの体の仕組みで病気に取り組むことが出来ると申し上げているのである。
しかし、それはそれは裏付けがないとなかなか出来る事ではない。
その為に、まず体の仕組み、免疫の勉強をしましょうと申し上げているのである。
出来れば、病気になる前、普段から体の勉強をされると良い。何よりも、病気を出さずに済む。
死に臨んでの落としどころ、納得できる何かが見えてくる用に思う。

委任から自立へ 無念から感謝へ